オリンピック、サーフィン競技でみせた五十嵐カノアの悔しさの姿

今回は、相続や事象承継がテーマではなく、サーフィンとオリンピックにおけるサーフィン競技でみせた五十嵐カノアの戦略と金メダルがとれなかった悔しさについて書いてみた。
サーフィンとの出会い
私は、現在は福岡在住ですが、高校卒業後の10年くらいは東京で暮らしていた(さまざまな経験をした10年間だった)。
20代前半、後輩の段取りで、湘南の鵠沼か辻堂だったと思うが、初めてサーフィンをした。
いわゆる腰位の波だったが、朝一番の海の美しさ、空気とスケールを感じ、これは一生するのではないかと感じたのをおぼえている。
その後、時間があれば、千葉、湘南たまには伊豆、そして福岡、唐津、山口、長崎、宮崎などでサーフィンをおこなってきた。
オフショア(陸から吹く風)になびく美しい波、台風の力強いビッグウェーブ、冬の寒波がつくりだす身のひきしまるような波、そしてオンショア(海側から吹く風)のジャンクな波など、さまざまな波と共に、春夏秋冬の季節を感じながらサーフィンをすることができたようだ。
そして、サーフィンをしなければ見ることがなかっただろう景色、感動もあったのではないかと思う。
現在も、たまに宮崎などにいっているので、初めて波乗りをしたときの、感覚は当たっていることになる。
オリンピックサーフィン競技、日本代表となった五十嵐カノアの生い立ち
今回、オリンピックサーフィン競技で銀メダルをとった五十嵐カノアは、共にサーファーである両親を持ち、米国のハンティントンビーチで育ち、現在もホームとしている。
3歳で初めてサーフィンにふれ、現在は、世界のCTというプロサーフィンの頂点のツアーを回り、常に上位にランクされているサーファーである。
頭もいいようで、5か国語を話し、学校も飛び級をしたとのことである。
サーフィンもダイナミックな中に、戦略的な戦い方をおこない、目が離せないサーファーである。
初めてオリンピック競技となったサーフィンとカノアの試合展開
今回の東京リンピックから、初めての競技となったサーフィン、日本とアメリカの国籍を持つカノアは日本を選び、金メダルをとることに集中していたようだ。
今回の準決勝では、現在CT世界ランク1位のメディナを破り、決勝ではフェレイラに負けて銀メダルとなってしまった。
ファイナル(決勝)では、フェレイラはグーフィーの波(海に向かって左から右に割れていく波)を選び、カノアはレギュラーの波(海に向かって右から左に割れていく波)を選んだポジショニング取り(戦略)だったようだ。
自然を相手にするサーフィンは、まず波の選択が勝敗をわける。
いい波にいかに乗れるかが勝敗の分かれ道となる。
カノア側には、終始いい波がこなく得点を伸ばすことができず、カノア自身もポジショニングを変えることなく時間がきてしまった戦いであった。
試合直後のインタビューでは、悔しさをにじませ、言葉を発するまで時間がかかる場面も多く、感情が押し上げてきていたようであった。
今後のカノアと、パリオリンピック
カノアは、東京オリンピックも終わり、年単位のプロサーフィンチャンピオンシップ(CT)の最終戦に向けて世界で活躍するだろう。
そして、3年後のパリオリンピックでは、また参戦をめざし金メダルを狙ってくるのではないだろうか。
ハワイ語で「自由」を意味する「カノア」という名前もしゃれている。
アウトサイダーであったサーフィンが、今ではメジャーとなり、オリンピック競技となっている。
そして、日本人の活躍も目立つ。
オリンピックやCTのような、競技サーフィンもひとつの形だろうが、思い思いに楽しんだり、挑むフリーサーフィンも楽しんでいきたいとあらためて感じた時間であった。


